2014年 04月 11日
Oyamapan Sound 終了しました |
2014年3月で、レーベルOyamapan Soundの活動は全て終了しました。
突然の思いつきで決めたことでしたが、新しいことを掴むために何かひとつ捨てなければならないという決断。
今後はHALATIONで活動を一本化します。引き続きよろしくお願いします。
もう15年くらい前でしょうか。初めは仲間内で始まったこと。ただの遊びでした。
そのときはメディアの向こう側にいるような、全国規模で活動するアーティストと音楽で絡むことは想像していなかった。
広大な音楽の世界の、ほんの片隅で遊ばせてもらっていただけだったのです。
月日が経つにつれ、音楽をやっている友達の数も徐々に増えていき、範囲も広がっていき・・・。
自分でも何かできるのではないか、発信できるのではないかと思いました。
そこには、こだわりというと聞こえがいいけど・・・自分の持つ極端な部分が自然と込められることになった。そうでなければやる意味がないと考えたからです。
今までに出会ったたった2人の天才。人間ロケットとY to the ONE、彼らに引き寄せられていったのは必然だったという気がします。
どちらも、この人生で一度しか耳にできないような、輝きに溢れた「言葉」を持っていた。すぐに掴まないと消えてしまう、一瞬の現象だった。
人間ロケットことロケットサンは年齢はひと回りほど上だけど、いつもくだらないことばかり言い合える親友だった。
ヒマなときにタイからメールしてたら、いつのまにかアルバムのリリースが決まった。
アルバムタイトル『肉球メディスン』にはけっこう反対した。アングラ感を出す必要がないと思ったから。だけど結果的にはこれで良かったのかもしれない。
世間と勝負しよう、人間ロケットバンドでアルバムを録音しようというオファーもした。
セッションは嫌いだと言っていた。ひとりでやるのが楽しいと。それでもあえてやろうと。
だけど彼の病気は待ってくれなかった。東京で2人でいろんなところを歩いたのは(ロケットサンは立ってるのもつらそうだった)、悪いことをしたかなとも思うけど、本当に大切な思い出になった。
Y to the ONEについては函館の人たちには説明不要。ヨネは多くの人たちから愛されてた。
みんなヨネの人柄が好きだった。レコード回すヨネも、バンドやってるヨネも、ふざけて架空のラジオ番組とかやってるヨネも。おれだってもちろん好きだった。
だけど、あえて「Y to the ONE」意外は興味ないふりをした。「究極」しか興味はないのだと。
天才天才とはやし立てられていたとしても(どこか函館のシーンからは距離を置かれたりもしていたけど)、このままじゃ全然ダメだ、もったいないのだということも話した。
なんとなく存在を知ってから10年、2人でのライブの時期を終えてDVDという形にするまでさらに5年。自分の行動はいつも遅い。なんだか申し訳ない。
札幌への車の中、青森へのフェリーの中で、2人きりで多くの話をしたはずだが、細かい内容は覚えていない。ただ、特別な時間が流れていた気がする。
函館にとっての「狂った季節」。2014年現在、それはまだ清算されていない。
今はどちらのアーティストもこの世には存在しない。
なぜその人生の終わり際に自分が関わることになったのだろう。
もしかしたらなんらかの「はかなさ」を感じとっていたのかもしれない。後付けに聞こえるだろうか?
Oyamapan Soundはただのレーベルにはならなかった。
この世界に、この時代に現れた瞬間を切り取り、同じ時間と空間をシェアしたアーティストと共に終わった。
自分にとっては、これが全て夢だったと言われたほうが納得のいくような、摩訶不思議な体験の連続でした。
にわかには信じられないような話。この世界で出会った大きな謎。
これからきっと話す機会があるかもしれません。
まずはレーベルを支えてくれたみなさんに感謝します。どうもありがとうございました。
[Facebook] 写真で振り返るOyamapan Soundの歴史
突然の思いつきで決めたことでしたが、新しいことを掴むために何かひとつ捨てなければならないという決断。
今後はHALATIONで活動を一本化します。引き続きよろしくお願いします。
もう15年くらい前でしょうか。初めは仲間内で始まったこと。ただの遊びでした。
そのときはメディアの向こう側にいるような、全国規模で活動するアーティストと音楽で絡むことは想像していなかった。
広大な音楽の世界の、ほんの片隅で遊ばせてもらっていただけだったのです。
月日が経つにつれ、音楽をやっている友達の数も徐々に増えていき、範囲も広がっていき・・・。
自分でも何かできるのではないか、発信できるのではないかと思いました。
そこには、こだわりというと聞こえがいいけど・・・自分の持つ極端な部分が自然と込められることになった。そうでなければやる意味がないと考えたからです。
今までに出会ったたった2人の天才。人間ロケットとY to the ONE、彼らに引き寄せられていったのは必然だったという気がします。
どちらも、この人生で一度しか耳にできないような、輝きに溢れた「言葉」を持っていた。すぐに掴まないと消えてしまう、一瞬の現象だった。
人間ロケットことロケットサンは年齢はひと回りほど上だけど、いつもくだらないことばかり言い合える親友だった。
ヒマなときにタイからメールしてたら、いつのまにかアルバムのリリースが決まった。
アルバムタイトル『肉球メディスン』にはけっこう反対した。アングラ感を出す必要がないと思ったから。だけど結果的にはこれで良かったのかもしれない。
世間と勝負しよう、人間ロケットバンドでアルバムを録音しようというオファーもした。
セッションは嫌いだと言っていた。ひとりでやるのが楽しいと。それでもあえてやろうと。
だけど彼の病気は待ってくれなかった。東京で2人でいろんなところを歩いたのは(ロケットサンは立ってるのもつらそうだった)、悪いことをしたかなとも思うけど、本当に大切な思い出になった。
Y to the ONEについては函館の人たちには説明不要。ヨネは多くの人たちから愛されてた。
みんなヨネの人柄が好きだった。レコード回すヨネも、バンドやってるヨネも、ふざけて架空のラジオ番組とかやってるヨネも。おれだってもちろん好きだった。
だけど、あえて「Y to the ONE」意外は興味ないふりをした。「究極」しか興味はないのだと。
天才天才とはやし立てられていたとしても(どこか函館のシーンからは距離を置かれたりもしていたけど)、このままじゃ全然ダメだ、もったいないのだということも話した。
なんとなく存在を知ってから10年、2人でのライブの時期を終えてDVDという形にするまでさらに5年。自分の行動はいつも遅い。なんだか申し訳ない。
札幌への車の中、青森へのフェリーの中で、2人きりで多くの話をしたはずだが、細かい内容は覚えていない。ただ、特別な時間が流れていた気がする。
函館にとっての「狂った季節」。2014年現在、それはまだ清算されていない。
今はどちらのアーティストもこの世には存在しない。
なぜその人生の終わり際に自分が関わることになったのだろう。
もしかしたらなんらかの「はかなさ」を感じとっていたのかもしれない。後付けに聞こえるだろうか?
Oyamapan Soundはただのレーベルにはならなかった。
この世界に、この時代に現れた瞬間を切り取り、同じ時間と空間をシェアしたアーティストと共に終わった。
自分にとっては、これが全て夢だったと言われたほうが納得のいくような、摩訶不思議な体験の連続でした。
にわかには信じられないような話。この世界で出会った大きな謎。
これからきっと話す機会があるかもしれません。
まずはレーベルを支えてくれたみなさんに感謝します。どうもありがとうございました。
[Facebook] 写真で振り返るOyamapan Soundの歴史
by edwardsandwich
| 2014-04-11 01:01
| Oyamapan Sound
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