2011年 09月 09日
Y to the ONE(ヨネ)のこと |
2011年9月6日、ヨネが東京の川で流されて亡くなった。
酒を飲んで、増水した川に入ったらしい。暑かったから川にでも入って遊ぶ? バカなこと言うな。
ヨネらしすぎる。あまりにも。
ニュースを見た。ちょっと待って、31歳男性なんかじゃないぞ、Y to the ONEだ。
次の日、朝からただ泣くことしかできない。
時間が止まった。自分にとって「函館」の意味は永遠に変わってしまった。
函館に移った十数年前くらいからヨネの存在は知っていた。おれは生まれは札幌。
どっちかというとお兄ちゃんのほうが先に知ってたかな。たぶん同い年。
「Y to the ONE」の名は兄から譲り受けたらしい。そう考えるとなんか意味深でしょ?
きっと色々と影響を受けていたはず。
そこからヨネとよく話すようになるまで、しばらく時間が空いた。
近いところにはいたけど、距離を置いてた感じだったかもしれない。
いくつもの霊的なトランジスタでの夜を共有して、ヨネとも少しずつ打ち解けていって・・・
いつのまにかCDのデザインなんかはやるようになってた。『For Brain』と『Roots of Y to the ONE』。
別にデザイナーじゃないが、他にやる人がいなかった。
近い人たちだけでなんとかするしかない。それが函館だ。
そして、激動の2008年の始まり。
ある夜、場所はクラブココアだったか、ヨネがものすごく神妙な顔をして近づいてくるんだよね、見たことないような。「今日はヒロオさんにひとつお願いしたいことがあったんですけど・・・」なんて調子で。
自分のライブのときのバックDJをやってほしいという依頼だった。
おれはヒップホップのDJじゃない。だけど、ヒップホップやってる方々に申し訳ないけど、Y to the ONEのDJだ。
ヨネのリリックは、ヨネの次くらいには頭に入れてた。何度も聴いたから覚えた。
2人が馴染むのに時間はかからなかった。
ブルーハーブによるターミネーターズツアー。これは2004年。函館の、今はなきフライデーナイトクラブ。
そのときまではヨネのライブ、まだそんなにグッとこなかったんだ。「函館最強ラッパー」を何度も連呼してた。
地元で一番、そんなの聞き飽きてた。
そこから、ちょっとずつ変わっていった気がする。
誰が気づいたかもわからないような変化。その繰り返し。
これはいけるかもという突破口が、ほんのわずかな隙間から見えた。
函館での4年ぶりのブルーハーブという舞台を設定するのに迷いはなかった。
あるときは青森行きの早朝のフェリーに2人で乗り込んだ。
待ってたのはブルーハーブ。だけど本人たちには知らせてない。
ステージ上で喋ってたBOSSさんが突然、「・・・なあ、ヨネ!」と言った。
客の顔はよく見えるというのは本当なんだな。
挨拶する間もなく車に乗り込み、八甲田山を奥へ奥へと連れていかれる。
無許可の野外パーティーだ。この差!
もうなにがなんだかわからないが、とにかくぶちかました。
大雨と風の中、火のないところにケムリをたててきた。
朝日がきれいだった。
青森は、みなファミリーのようにあたたかい。
札幌へ車を走らせたことも何度も。長い長い道のり。
雪の積もる時期、車の外で休憩してたら急にヨネはこう言ったんだ。
「おれは三十までは生きない。それで伝説になる。それしかないってずっと思ってるんだ」
昼間に、きのこ汁を何杯もおかわりした後に言うセリフじゃないぞ。
いや、今のままじゃまだまだでしょ。そんなことを返した。
クラブに乗り込んでリハを終えた後の時間は、どこか近くの適当なビルを見つけて、階段の下で口数少なく、2人で缶ビールをチビチビやってた。アウェイだからね。
ライブに向けてのムードを崩さないように、意外と慎重にやってた。
出番が終わると最前列に陣取って乾杯した。
ガハハと笑うヨネの声が、マイク持ったMCの声よりでかいんじゃないかと心配したよ。
そして12月24日、GHOST TOWN BRIGHTNESS、これは自分の函館にたいするけじめだった。
音楽に関するあらゆるガイダンスを与えてくれたブルーハーブ、おれが世界一尊敬するハコダテシティーハードコアよりマスタング、面子は揃った。
「THIS IS MY HARDCORE」
「今夜金森ホールが地球の中心なんだってことをわからす!」
壁に寄りかかりジッと目を閉じて集中する。これは初めて見るヨネだ。
表情もいつもと全然違う。険しい。もうすぐ始まるってときに慌てて駆け寄ってきた。
「"ケムリをたてろ"の最後のほうちょっと余るんだけど、なんて言えばいいの?」
「えっ? "ハコダテシティーハードコア、ケムリをたてろ! ザ・ブルーハーブ、ケムリをたてろ! DJ HIROO、ケムリをたてろ!" これでバッチリでしょ」
誰も思いつかないことをとんでもない想像力で言葉にしたり、簡単なことが思いつかなかったり、ヨネはほんと不思議だ。
選曲、曲順はもちろん、ときには曲間のMCなんかも2人で決めてた。
でたらめに見えるときもあったかもしれないけど、けっこう話し合ってたんだ。
キリがなくなるから夜じゃなくて練習はだいたい昼間。酒じゃなくて、缶コーヒーとかお茶で。
たまにうちの親が作ったご飯を一緒に食べてた。声がでかいだけあって、なんでもよく食うんだ。
あるときヨネがタバコに火をつけようとしてずっとカチカチやってた・・・ライターじゃなくてボールペンを。完全にシラフなんだけど。
おれ、だからヨネって天才だと思うんだ。
そしてイブのステージは終わった。
あれがベストだったか? わからない。
でもヨネの集中力が実を結んだ、なんというか、誠実なライブができた。
ヨネが生まれて初めて父親にライブ映像を見せたと言ってた。
「よくあんなに喋って息が切れないな」と感心されたらしい。よかったな、ヨネ。
会場を出て、BOSSさんが昔どうしてもデートで行きたかったというカリフォルニアベイビー、通称「カリベビ」へ。
DYE君や函館の仲間たちを交えてずいぶん飲んだ。
ヨネとBOSSさんが肩を組んで「BYE BYE SICK」を歌ってたって話。
恋人との甘いデートも、ムード満点の雪もなかったけど、最高のクリスマスになった。
「何度も言うけど、オマエは日本語ラップ最後の秘境だからな」
「ラップじゃオマエなんかに負けるわけないけど、"詩"ってことに関してだけは絶対にかなわないと思ってる」
「世界的に見ても、とてつもないオリジナル」
おれ、誰がいちばんヨネがいなくなって悔しいかわかる気がするんだ。
Y to the ONEの話になるとみんな初期を語るけど、おれは2007年〜2009年あたりが最盛期だったのかと思う。
声は潰れてるし、昔ほど滑舌もよくない。でもヨネにしか出せない味があった。
あのときヨネは上向きだった。それは名盤『必殺の肉声』にも現れている。
なんの運命か、おれはタイに行くことになっていた。道は分かれた。
当時ではありえない選択だったけど、よくわからない力に引き寄せられた。
2人だけで開けた扉は、慌ただしいまま閉じられた。
いつでも一緒にできると思っていた。でもヨネは嫌がった。
バンコクと函館で日本列島を挟み撃ちなんて調子良すぎか?
函館に残された者としてのプライドがあったのだろう。
でもそれからしばらくして、一緒に札幌に行ってほしいと頼まれた。
あのときと同じく、なんだか申し訳なさそうに。
ライブはしっくりこなかった。なにか手応えがなかった。
ヨネは少し疲れているように見えた。
そして朝方、すすきのの路上で別れた。
おれ日本に帰ってもなんだかバタバタするばかりで自分のことしか考えてない。
みんないつでも会えるわけじゃないのにね。
小さな街でも多くの人生がすれ違っている。
函館のキッズたちはY to the ONEを知らない。
Y to the ONEは17年間、函館を歌い続けた。
その事実が知られるのはこれからだ。
きっとほとんどの人はベストなヨネを見ていない。
驚くよ、突然、人間じゃないような動きをするんだ。
後ろから見てたからわかる。ずっと脳裏から離れない。
函館の片隅の、あの函館だけが持つオーラの中で、それは秘密になってしまった。
つい最近ヨネが退院してからは、よくメールのやりとりをした。
なんで電話しなかったんだろう。悔やんでも仕方がない。
いくつかのリリースの話を進めてた。
それはちょっとした起爆剤のつもりだった。
しかし突然に幕はおろされた。
もしそれらが世に出るならば、きっと多くの人の力を借りなければならない。
これから酒を飲むときは必ずヨネと乾杯してから飲むだろう。
今だから言ってるんじゃない。これからずっとそのふたつはセットだ。
昼間から2人でアブサン飲んで、プロレスの話とかしてたもんな。
デスマッチで頭に画鋲が刺さったとか、そんなくだらないことばかり。
四十になっても五十になっても六十になっても一緒に酒飲んでバカ話できると信じてた。
ヨネの敬愛する、一緒にラップでセッションしたこともある三上寛さんみたくなると思ってた。
それがまさか・・・。
ひとつも納得できることなんてない。あるはずもない。
まだ自分の闘いは終わっていない。
去年と今年で、自分が音楽で関わる中で最も大事な2人をなくした。
おれが今までに出会った天才はその2人だけだ。他にはいない。
ヨネには絶対にかなわない。そんな人間だった。
だけどこれから、おれの心の中に生きてくれるだろうか。
とにかく、ヨネがいなくてさみしいよ。
ヨネのいない世界はつまらない。
だけどヨネ、友達でいてくれて本当にありがとう。
またどこかでYとHで街ごとひっくり返してやろう。
いつかどこかで
酒を飲んで、増水した川に入ったらしい。暑かったから川にでも入って遊ぶ? バカなこと言うな。
ヨネらしすぎる。あまりにも。
ニュースを見た。ちょっと待って、31歳男性なんかじゃないぞ、Y to the ONEだ。
次の日、朝からただ泣くことしかできない。
時間が止まった。自分にとって「函館」の意味は永遠に変わってしまった。
函館に移った十数年前くらいからヨネの存在は知っていた。おれは生まれは札幌。
どっちかというとお兄ちゃんのほうが先に知ってたかな。たぶん同い年。
「Y to the ONE」の名は兄から譲り受けたらしい。そう考えるとなんか意味深でしょ?
きっと色々と影響を受けていたはず。
そこからヨネとよく話すようになるまで、しばらく時間が空いた。
近いところにはいたけど、距離を置いてた感じだったかもしれない。
いくつもの霊的なトランジスタでの夜を共有して、ヨネとも少しずつ打ち解けていって・・・
いつのまにかCDのデザインなんかはやるようになってた。『For Brain』と『Roots of Y to the ONE』。
別にデザイナーじゃないが、他にやる人がいなかった。
近い人たちだけでなんとかするしかない。それが函館だ。
そして、激動の2008年の始まり。
ある夜、場所はクラブココアだったか、ヨネがものすごく神妙な顔をして近づいてくるんだよね、見たことないような。「今日はヒロオさんにひとつお願いしたいことがあったんですけど・・・」なんて調子で。
自分のライブのときのバックDJをやってほしいという依頼だった。
おれはヒップホップのDJじゃない。だけど、ヒップホップやってる方々に申し訳ないけど、Y to the ONEのDJだ。
ヨネのリリックは、ヨネの次くらいには頭に入れてた。何度も聴いたから覚えた。
2人が馴染むのに時間はかからなかった。
ブルーハーブによるターミネーターズツアー。これは2004年。函館の、今はなきフライデーナイトクラブ。
そのときまではヨネのライブ、まだそんなにグッとこなかったんだ。「函館最強ラッパー」を何度も連呼してた。
地元で一番、そんなの聞き飽きてた。
そこから、ちょっとずつ変わっていった気がする。
誰が気づいたかもわからないような変化。その繰り返し。
これはいけるかもという突破口が、ほんのわずかな隙間から見えた。
函館での4年ぶりのブルーハーブという舞台を設定するのに迷いはなかった。
あるときは青森行きの早朝のフェリーに2人で乗り込んだ。
待ってたのはブルーハーブ。だけど本人たちには知らせてない。
ステージ上で喋ってたBOSSさんが突然、「・・・なあ、ヨネ!」と言った。
客の顔はよく見えるというのは本当なんだな。
挨拶する間もなく車に乗り込み、八甲田山を奥へ奥へと連れていかれる。
無許可の野外パーティーだ。この差!
もうなにがなんだかわからないが、とにかくぶちかました。
大雨と風の中、火のないところにケムリをたててきた。
朝日がきれいだった。
青森は、みなファミリーのようにあたたかい。
札幌へ車を走らせたことも何度も。長い長い道のり。
雪の積もる時期、車の外で休憩してたら急にヨネはこう言ったんだ。
「おれは三十までは生きない。それで伝説になる。それしかないってずっと思ってるんだ」
昼間に、きのこ汁を何杯もおかわりした後に言うセリフじゃないぞ。
いや、今のままじゃまだまだでしょ。そんなことを返した。
クラブに乗り込んでリハを終えた後の時間は、どこか近くの適当なビルを見つけて、階段の下で口数少なく、2人で缶ビールをチビチビやってた。アウェイだからね。
ライブに向けてのムードを崩さないように、意外と慎重にやってた。
出番が終わると最前列に陣取って乾杯した。
ガハハと笑うヨネの声が、マイク持ったMCの声よりでかいんじゃないかと心配したよ。
そして12月24日、GHOST TOWN BRIGHTNESS、これは自分の函館にたいするけじめだった。
音楽に関するあらゆるガイダンスを与えてくれたブルーハーブ、おれが世界一尊敬するハコダテシティーハードコアよりマスタング、面子は揃った。
「THIS IS MY HARDCORE」
「今夜金森ホールが地球の中心なんだってことをわからす!」
壁に寄りかかりジッと目を閉じて集中する。これは初めて見るヨネだ。
表情もいつもと全然違う。険しい。もうすぐ始まるってときに慌てて駆け寄ってきた。
「"ケムリをたてろ"の最後のほうちょっと余るんだけど、なんて言えばいいの?」
「えっ? "ハコダテシティーハードコア、ケムリをたてろ! ザ・ブルーハーブ、ケムリをたてろ! DJ HIROO、ケムリをたてろ!" これでバッチリでしょ」
誰も思いつかないことをとんでもない想像力で言葉にしたり、簡単なことが思いつかなかったり、ヨネはほんと不思議だ。
選曲、曲順はもちろん、ときには曲間のMCなんかも2人で決めてた。
でたらめに見えるときもあったかもしれないけど、けっこう話し合ってたんだ。
キリがなくなるから夜じゃなくて練習はだいたい昼間。酒じゃなくて、缶コーヒーとかお茶で。
たまにうちの親が作ったご飯を一緒に食べてた。声がでかいだけあって、なんでもよく食うんだ。
あるときヨネがタバコに火をつけようとしてずっとカチカチやってた・・・ライターじゃなくてボールペンを。完全にシラフなんだけど。
おれ、だからヨネって天才だと思うんだ。
そしてイブのステージは終わった。
あれがベストだったか? わからない。
でもヨネの集中力が実を結んだ、なんというか、誠実なライブができた。
ヨネが生まれて初めて父親にライブ映像を見せたと言ってた。
「よくあんなに喋って息が切れないな」と感心されたらしい。よかったな、ヨネ。
会場を出て、BOSSさんが昔どうしてもデートで行きたかったというカリフォルニアベイビー、通称「カリベビ」へ。
DYE君や函館の仲間たちを交えてずいぶん飲んだ。
ヨネとBOSSさんが肩を組んで「BYE BYE SICK」を歌ってたって話。
恋人との甘いデートも、ムード満点の雪もなかったけど、最高のクリスマスになった。
「何度も言うけど、オマエは日本語ラップ最後の秘境だからな」
「ラップじゃオマエなんかに負けるわけないけど、"詩"ってことに関してだけは絶対にかなわないと思ってる」
「世界的に見ても、とてつもないオリジナル」
おれ、誰がいちばんヨネがいなくなって悔しいかわかる気がするんだ。
Y to the ONEの話になるとみんな初期を語るけど、おれは2007年〜2009年あたりが最盛期だったのかと思う。
声は潰れてるし、昔ほど滑舌もよくない。でもヨネにしか出せない味があった。
あのときヨネは上向きだった。それは名盤『必殺の肉声』にも現れている。
なんの運命か、おれはタイに行くことになっていた。道は分かれた。
当時ではありえない選択だったけど、よくわからない力に引き寄せられた。
2人だけで開けた扉は、慌ただしいまま閉じられた。
いつでも一緒にできると思っていた。でもヨネは嫌がった。
バンコクと函館で日本列島を挟み撃ちなんて調子良すぎか?
函館に残された者としてのプライドがあったのだろう。
でもそれからしばらくして、一緒に札幌に行ってほしいと頼まれた。
あのときと同じく、なんだか申し訳なさそうに。
ライブはしっくりこなかった。なにか手応えがなかった。
ヨネは少し疲れているように見えた。
そして朝方、すすきのの路上で別れた。
おれ日本に帰ってもなんだかバタバタするばかりで自分のことしか考えてない。
みんないつでも会えるわけじゃないのにね。
小さな街でも多くの人生がすれ違っている。
函館のキッズたちはY to the ONEを知らない。
Y to the ONEは17年間、函館を歌い続けた。
その事実が知られるのはこれからだ。
きっとほとんどの人はベストなヨネを見ていない。
驚くよ、突然、人間じゃないような動きをするんだ。
後ろから見てたからわかる。ずっと脳裏から離れない。
函館の片隅の、あの函館だけが持つオーラの中で、それは秘密になってしまった。
つい最近ヨネが退院してからは、よくメールのやりとりをした。
なんで電話しなかったんだろう。悔やんでも仕方がない。
いくつかのリリースの話を進めてた。
それはちょっとした起爆剤のつもりだった。
しかし突然に幕はおろされた。
もしそれらが世に出るならば、きっと多くの人の力を借りなければならない。
これから酒を飲むときは必ずヨネと乾杯してから飲むだろう。
今だから言ってるんじゃない。これからずっとそのふたつはセットだ。
昼間から2人でアブサン飲んで、プロレスの話とかしてたもんな。
デスマッチで頭に画鋲が刺さったとか、そんなくだらないことばかり。
四十になっても五十になっても六十になっても一緒に酒飲んでバカ話できると信じてた。
ヨネの敬愛する、一緒にラップでセッションしたこともある三上寛さんみたくなると思ってた。
それがまさか・・・。
ひとつも納得できることなんてない。あるはずもない。
まだ自分の闘いは終わっていない。
去年と今年で、自分が音楽で関わる中で最も大事な2人をなくした。
おれが今までに出会った天才はその2人だけだ。他にはいない。
ヨネには絶対にかなわない。そんな人間だった。
だけどこれから、おれの心の中に生きてくれるだろうか。
とにかく、ヨネがいなくてさみしいよ。
ヨネのいない世界はつまらない。
だけどヨネ、友達でいてくれて本当にありがとう。
またどこかでYとHで街ごとひっくり返してやろう。
いつかどこかで
by edwardsandwich
| 2011-09-09 03:11
| Y to the ONE
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Comments(3)
Commented
at 2011-09-21 22:07
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
edwardsandwich at 2011-09-22 12:26
コメントありがとうございます。
ヨネのアルバムは「必殺の肉声」を入れて10枚はあるかもしれないですね。
みなさんの元に届けばいいなと思います。
もちろんライブは最大の魅力でした。
観ていただくことができなくて残念です。
ヨネのアルバムは「必殺の肉声」を入れて10枚はあるかもしれないですね。
みなさんの元に届けばいいなと思います。
もちろんライブは最大の魅力でした。
観ていただくことができなくて残念です。
0
Commented
by
noname
at 2011-11-12 09:33
x
最近、Y TO THE ONEというアーティストがどうなっているか気になっていた。
中学生の時に病んでた俺に染みるようなリリックが大好きだった。
特にオレンジは好きだったなあ。
どこまで上がってきたのか気になったので今日、「Y TO THE ONE]で検索するとここにたどり着いた。
驚きはしませんでした。半分、俺の中で彼は自殺してるのではないかと思っていたから。
当時の聞いてた彼のリリックは自虐的な内容の中に希望の光があり、もがいていたのを感じていた。
大好きだった。MFDOOMを聞きながら思い出した、Y TO THE ONEというアーティストがいたと。
遠く離れた九州にも響いたリリックとサウンドは、世界が終わるまで語り継がれるだろう。R.I.P
中学生の時に病んでた俺に染みるようなリリックが大好きだった。
特にオレンジは好きだったなあ。
どこまで上がってきたのか気になったので今日、「Y TO THE ONE]で検索するとここにたどり着いた。
驚きはしませんでした。半分、俺の中で彼は自殺してるのではないかと思っていたから。
当時の聞いてた彼のリリックは自虐的な内容の中に希望の光があり、もがいていたのを感じていた。
大好きだった。MFDOOMを聞きながら思い出した、Y TO THE ONEというアーティストがいたと。
遠く離れた九州にも響いたリリックとサウンドは、世界が終わるまで語り継がれるだろう。R.I.P